『GODIZILLA ゴジラ』

一度下書きに引っ込めたものを再度公開したら日付が変わっていた。本当は2014年8月の頭に書いたものです。ネタバレ。


戦後アメリカ核開発史の影にゴジラあり!の超かっこいいタイトルバックからの、ハッ!ハッ!みたいなオリエンタルサウンドに乗せて現れるふしぎ日本情景(JANJIRA JAPAN)やら、空気を読んで進行速度を変化させる蒸気に早くも「んんん??」という気分が立ち上がってくるのだけど。それはさておき。

ゴジラの名前について。
ゴジラ」という名前の意味。
ゴジラ」という言葉それ自体に意味はない。「ゴリラの力強さとクジラの巨大さを掛けあわせた」という有名な逸話や、英語圏の人々がゴジラの英語表記Godzillaから「God(神)」「gorilla(ゴリラ)」「lizard(トカゲ)」の3つの単語を連想するとかいった話はあるけれど、とりあえずエイリアン(異邦人)やプレデター(捕食者)などといった明確な意味を有する単語ではない。
しかしシリーズ第1作の『ゴジラ』では、小笠原諸島・大戸島(架空)に古来より伝わる怪物の名前を取り「ゴジラ」と命名されたという経緯が描かれる。したがって、ゴジラという造語に意味はないが、映画の作中においてはそのようなゆかりがあり唐突に降って湧いた名前ではない。
ギャレス・エドワーズ監督の『GODILLA』に登場するゴジラも、生息年代こそ初代の「200万年前のジュラ紀」から古生代ペルム紀に移りはしたものの、この伝説上の怪物の名前を引用したという作中設定をおおまかには踏襲しているらしい(バンダイソフビのタグに書かれた解説などを見ると)のだが、作中でそれが語られることはない。

We call him... "GODZILLA".
(我々は彼をこう呼んでいる、"ゴジラ"。)

日本版予告第3弾にもある、このおそろしく格好いいシーンが本編でどう使われているかといえば、この映画世界の住民にとって耳慣れないはずの「ゴジラ」という単語の意味するところは一切説明されず「我々はこの怪獣に"ゴジラ"という名前を与えました」という、本当にたったそれだけの事実報告が、謙さん渾身のキメ顔・キメ声・キメアングルで為されるというなんとも不思議な場面になっていて、何故そこでかっこつけるのか分からない。ゴジラって何?それは皆さんご存知のあのゴジラです、拍手~。映画外の文脈、ジャンルもの鑑賞作法に寄りかかった作りに一見思える。
*1
だが、「ゴジラ」という名の持つ響きに絶対の自信を持ったればこそ、確信的に設定語りを除いたのだとしたら。
渡辺謙が押し通した日本語発音の「ゴジラ(GOJIRA)」、その3音節の言霊こそがゴジラゴジラたらしめるのであり、架空の伝説の怪物に由来するなどというもっともらしい意味付けをもはや必要としないのだと。
それはすなわち、従来の水爆大怪獣だの怪獣王といった仰々しい肩書きもこのゴジラには不要だということだ。ただ「ゴジラ」と、それだけでいい。ゴジラ。それより他にこの存在を表す如何なる言葉も我々は持ちあわせていない。ゴジラとしてそこにあるゴジラをただ「ゴジラ」と呼ぶ、それが我々に与えられた唯一の言語である。ゴジラ
みたいな愚考を巡らせていると今度は「怪獣王は救世主か?」なので、はい、今のナシ。ナシです。

ともかく総製作費160億円の新生ゴジラが動き、吼える。その革命的咆哮を、しかしこの映画はきっちりケツまで見せきらず、主人公が内地に置いてきた息子にポンと場面を飛ばしてしまう。ベッドで寝転ぶ息子に被さる残響(ォォォン、ォン、ォン……)。新怪獣ムートーとの第一戦はまさかのニュース画面内処理。
2時間4分という上映時間に留めるためにはこれが最もスマートな選択で、冗長に対決シーンをそのまま流すより遥かに効果的な演出だったのかもしれない。だがそういったトリッキーな構成の妙だとか、いわゆる映画的な「おもしろさ」の希求みたいな小賢しい手練手管は、この新生ゴジラのせっかくの初舞台を毀損しているように思えてならない。このゴジラをそのような手つきで扱うのかと。
不満ついでに、あの放射火炎(あえてこう呼びたい)。そっちで来たか!という新鮮味こそあれ、川北ゴジラのような派手派手しいハレーションエフェクトもミレニアム期のような山肌をゴリゴリ削る高圧や超ロングの1ショットで高空の戦闘機を撃ち落とす長射程も持たない素朴な炎を乾坤一擲の必殺技でございと持ってこられても、平成育ちの自分としては受け容れがたいものがある。もっと乱発してくれたらよかったのに。
あと、戦闘後の主人公に降り注ぐ救助ヘリのライトの光を、直前のゴジラの放射火炎以上に煌々と輝く強烈な青白い光としてしまっているのは、単純に失敗しているのでは。核爆発といい、どうにも散らかった印象を受けてしまう。

SEKAI NO GODZILLA

なるほど確かにこれはゴジラであろう。しかし私の、君の夢見たゴジラは本当にこれだったか?
「世界が終わる」と遠藤憲一が言った時に、それは言葉通りの人類滅亡!一面の荒野!という情景を意味しないのだろうが、それでも何らかの形で一匹の怪獣がもたらす世界の終焉をほんの入口だけでも見せてくれるのだろうと思っていた。しかもそれを怪獣対決モノのフォーマットでやってのけるのだと。無理なんじゃないか?いや、今度のゴジラならひょっとしたら、と。
そりゃあIMAX3D料金2300円+往復交通費分の見返りは十二分にあったけれど、すでに2回観てるんで来年度の予算はゼロだな。来年度があればだが。*2来年度なんて来なければいい。この1作でトドメを刺して欲しかった。新・三大怪獣を今から楽しみになんてしたくなかった。初日の劇場に骨を埋めたかった。しかし世の中そう簡単に死なせてはくれない。世界は続く。まあそれでいいのかもしれない。樋口真嗣ノストラダムスの大予言を本気で信じていて、だからガメラ3はああいう映画になったという話、リップサービス8割の与太話と思っていたけど、あれはこのような心境だったのだろうか、今なら解るぞという気持ちに勝手になっている。違うのかもしれない。世界の終焉だの樋口真嗣だのいっておまえは一生『巨神兵東京に現わる』でも観てろという感じの文章になってしまっている。あれ、好きじゃないのに。
ともかくわたしたちは「結構いい奴だったよな、ゴジラ」の20年後の地平に立っているのだ。そのことに改めて気付かせてくれてありがとう、GODZILLA

それにしても、パシフィック・リムにしろ今度のゴジラにしろ、本多猪四郎監督へのリスペクトを押し出している割には「本多猪四郎」的要素――自分が思う「本多猪四郎」とは、「○○湾にゴジラ出現。工業地帯を練り歩くゴジラ。手前には逃げ惑う市民の姿。サイレン。半鐘の音」といった、俗に「ゴジラの恐怖(猛威)」と呼ばれる伊福部昭の楽曲が流れる中での一連の描写を指すということになっているのだけど、パシリムもギャレス・ゴジラもこれぞ本多猪四郎という画は現れない。確かにこれをやらずとも映画は成立するだろう、というか現にしているし、平成以降の形骸化した「本多猪四郎」演出(観光名所にフォーカスした絵ハガキめいた構図、新幹線が平常運行、路線バスは怪獣へ向けて逆行、締りのないエキストラの芝居)は日本特撮特有の緊張感を欠く絵面の典型などと言われることもあるのだけれど、自分の求める「ゴジラ映画」「怪獣映画」とはどうもこの至極の弛緩した時間のことらしい。
この、どこを切り取ってもゴジラ映画としか言いようのないゴジラ映画を観ていまひとつゴジラ的充足を得た実感がないのはこの本田猪四郎分の欠乏によるところが大きいのではないかと思う。かようにオレ用語やオレ採点表を持ちだすことからもオレのこの映画への乗れてなさが如実に表れていて悲しくなる。

予告に出てないよかったところ。

  • 主人公の奥さんが空を見上げると、パラシュートを背負った兵隊さんがゆったりと降ってくる。ん?続く爆音。ビルに突き刺さり爆破炎上する戦闘機。ここは本当によかった。このような時間を2時間味わいたかったのかもしれない。
  • ムートーの思いがけないデカさ。雌なんて体感でいったらゴジラ以上か(90メートルとか言ってたような気もするけど)。あの夫妻の養子になりたい。
  • あじわい日本語。ゲンシロヲ、ミッペイスルンダ……!コレイジョウハメンドウミキレンゾ!(うろおぼえ)。ココニイテ……(やさしい)

ほかにも無数にあると思うけど、今思い出せるのはこんなところ。それにつけても劇場で売っているドリンクカップ付きゴジラフィギュアは本当に出来がいい。

*1:なお、この時点でゴジラはオープニング以外には姿を見せておらず当然主人公との接点も皆無なため、「君は初めて見るだろうけど、M.U.T.O.、あっこれは君がさっき遭遇したやつね、その話はおいおいするから、の他にもこういう背中に尖ったビラビラがいっぱいあるやつがいて」といったふうにゴジラの解説がムートーの解説に至るための枕になってしまっており、話下手か!と思う

*2:viaデストロイア。言いたいだけ